真理関係

白紙の書籍

仏教の本質は「反省」ですが、これを哲学化し、難解な知識に作り上げていったのが釈尊死後の仏弟子です。

この点を高橋信次教祖がよく批判していましたが、釈尊自身が頭の良い方ですから仏弟子も頭がいいのでしょう。

頭が良すぎて大衆が、「ちょっと、何言っているかわかんない」みたいな経典になっている。

GLAでは、大衆の理解を超えた経典に救いなしという意味での批判をしていました。

大衆が理解していないのに救えるわけない、と。

ただ大衆が理解できる教えが、必ずしも救いにつながるわけでもない。

それは既存の宗教界の教えを見れば明らかです。

神の心でしか救いはないわけですから、神の心を探求していくのが王道です。

そしてこの王道を突きすすめば、難しい思想や哲学になるのも自然な流れです。

神の心はある意味異常に複雑で難解ですからね。

何でも分かりやすく言えばいいというものでもない。

たとえ分かりやすく説いても、その大衆の悟りとはならない。

悟ってもいないのに悟った気になる者達を作るだけです。

なまじ分かりやすく説いているためにすぐ分かった気になる。

ところが全然分かっていないわけです。

分かりやすく説こうが、ヘーゲル哲学や西田哲学のように難解な表現であろうが、理解できない者は理解できず、悟っていない者が悟りを理解できないのと同じです。

これはエマソンも言っておりましたし、GLAでも同じです。

あの愛すべきカーライルやワーズワース、あいつらは良い奴だ、と。

しかして彼らは私の道徳の第一哲学を理解していない、とエマソンも言っていますが、GLAでも同じです。

カーライルもワーズワースもエマソンの書籍は読んでいたはずですが、読んでも本人が悟っていないためにエマソンの書籍を読んでも理解できないわけです。

字面を追っているだけでね。

『心と人間シリーズ』も同じであり、お弟子さんなら全冊読んでいるでしょうが、それで高橋信次の悟りを理解しているかと言えば、カーライルやワーズワースと同じで、まるで理解していない。

分かっていないのです。

では難しく難解な表現をしているからかと言えば、エマソンも高橋信次氏も別に殊更難解な表現をしているわけでもない。

にも拘わらず読んでも理解できていないわけです。

書物で神の心を悟ることはできない。

この点はエマソンも『批評家の精神』で述べておりますが、その書籍を批評できる者とは、その書籍を書いた著者と同一の精神をもっている者だけである、と。

そうでなければ頓珍漢な理解や批評となります。

ヘーゲルを批評する批評家も同じであり、例えばヘーゲルが「理性的なものは現実的、現実的なものは理性的」と言えば、批評家はよく現実は複雑でそれほど理性的なものではないよと頓珍漢な批評をする人達がいました。

理解していないのに理解した気になって批評するからそうなる。

これは分裂後のGLAでも頻繁に見られた現象です。

ヘーゲルやエマソンを正当に批判できる者は、ヘーゲルやエマソンと同一の精神を持っている者だけだということです。

GLAでも同じであり、お弟子さんや幸福の科学もそうですが、高橋信次批判をしていたと思いますが、まるで高橋氏の悟りを理解しておらず、唖然としたことがある。

悟りのない時にエマソンと高橋信次氏の書籍を全て読んで理解していたつもりだったわけですが、後から自力で神の思想レベルに到達した時、昔読んで自分なりに理解していたつもりになっていたエマソンと高橋信次氏の悟りに対するその理解が、全く間違っていたことを確認したことがある。

あぁ、彼らはこれを言っていたのか、と。

ならば昔読んで理解していたその自分の理解の仕方は全く間違っていた、と分かった時がある。

今から思えば頓珍漢な理解をしていたのです。

自力で神の心を悟っていない者は、高橋信次氏の書籍であろうが、エマソンの書籍であろうが、読んでも理解することはできません。

理解した気になっているだけです。

理解していないのです。

基本的にはあの世と同じです。

スウェーデンボルグが、天界の図書館に入って書籍を色々と手に取っている時、中には文字が全く書かれていない白紙の書籍があったと報告していますが、これはこの世も同じです。

スウェーデンボルグが白紙の書籍と言っていたのは、実際白紙の書物なのではなく、スウェーデンボルグの当時の悟りではその書籍が読めなかっただけなのです。

当時のスウェーデンボルグの悟りが低く、その悟りでは理解できない書籍だったから白紙に見えたのです。

だから読めない書物が、白紙の書籍となって書庫に大切に収められている。

悟りを上げれば、その白紙の書籍を読むことができるのです。

エマソンやヘーゲル、西田哲学や高橋信次氏の書籍というのは、この世では基本的に白紙の書籍なのです。

悟りのない者が読んでも分からず、理解もできないのです。

白紙の書籍を理解するには、自己の悟りをその著者と同一レベルの悟りに上げなければ理解できないのです。

すべからく一貫してエマソンも高橋信次氏も同じ理念で述べているわけですが、書籍を暗記するほど読み込んでも、賭けてもいいですが、その方は理解していません。

だから高橋信次氏死後、GLAは分裂したのです。

彼らの悟りを理解するには、彼らと同一の悟りを持つ以外にはないのです。

基本的に如来の書物は、白紙の書籍だからです。

書物で神の心を悟ることはできない。

エマソンはこれを言っていた。

上から下は理解していない事実を分かっているけれども、下から上は分からない。

分かっていない事実が分からないわけです。

読んでも分からないのです。

だからどうしても分かった気で終わるのです。

天界の図書館では、読んでもどうせ理解できませんから初めから白紙の書籍としてあらわれる。

読めない書物として書庫にある。

自己の悟りを上げなければ、その白紙の書物を読むことはできない。

持てる者は更に持ち、持たざる者は更に持たない世界です。

悟りを上げれば上げるほど高度な悟りの書物を読むことができ、更に悟りは上がるが、悟りが低い者は白紙の書籍しか得られず、高度な悟りに接することもできず、更に悟りは落ちていく。

こうして個人でも国家単位でも民度の高低が決まっていく。

悟りを上げるには、仏教で最も大切な心と言われる菩提心を自力で育む以外にはない。

菩提心とは、これ求道心。

仏教では菩提心、あるいは求道心と言いますが、キリスト教では「求めよ、さらば与えられん」と言う。

神への信仰が重要なのは、この菩提心を育て、求める求道心を研ぎ澄ますにはこの道しかないからです。

求めよ、さらば与えられん。

探せ、さらば見つからん。

叩け、さらば開かれん。

神への信仰がなければ、神の心を求めることもせず、神の心を探そうともせず、神の門を叩こうともしない。

そして悟りから増々遠ざかっていく。

持てる者は更に持ち、持たざる者は更に持たなくなる。

信仰者は、神の心を求めるがゆえに更に持ち、悟りを求めるがゆえに更に多くの悟りを得る。

無神論者は、神の心を求めないがゆえに更に持たなくなり、悟りも求めないがゆえに更に悟りが落ちていく。

悟りが落ちれば落ちるほど書店に行っても読める書物が増々減少し、どの書籍を紐解こうがそこには文字が全く書かれていない白紙の書物ばかりになっていく。

悟りが上がれば上がるほど、かつて読めなかった白紙の書籍には文字が浮かび、高度な悟りに接する機会をもつ。

悟りは求めれば求めるほど上がる。

悟りを求めなければ求めないほど、その者の悟りは下がっていく。

悟りが下がっていくとは、人格性が低下していくということだ。

自己の悟りを上げる道とは、これ神への信仰の道と求道心。

人格性の低下とは、悟りの低下ですが、悟りの低下とは無神論の別名です。

神への信仰の欠如は、自我のままに生きるということであるから当然、神の心ではなく、神の体(物質)に支配されることになる。

この神の体の属性に支配され、物質の属性を有した思想と行動を取りたる存在が、これサタン、あるいは悪魔と言われる存在です。

富を天に置いたり、弱みに付け込んだり、数を目的としたり、従的なものをやたら欲したり、未熟なる者を地獄に堕とそうとしたり、未熟に付け込んだり、嘘ばかりついたり、本音と建て前を使い分けたり、これら物質の属性を有した思想と行動を取ることになる。

神への信仰を失えば、必然的に神の体に支配されることになる。

悪魔の研究とは物質の研究、すなわち神の体の研究と同じですから、大宇宙、すなわち神ご自身の探求の道となる。

霊天上界は神の心が支配し、地獄界は神の体が支配している。

どちらも神が永遠に支配している。

見えない者には白紙の書籍があらわれ、見える者には読める書籍としてあらわれる。

白紙の書籍が読めないのは、自己の心を知らないからだ。

自己の心に対して盲目であるゆえに外の書籍が読めない。

傲慢は人を盲目にするが、盲目だからその書籍が読めないのだ。

盲目だから白紙の書籍があらわれる。

神眼を開けば、すべての書籍が読める。

白紙の書籍など存在しない。

自己の心を知ることを悟りというが、その心はすべて神が支配している。

従ってわが心を知るとは、神を知るということだ。

実際、神の体に支配されている者達が全世界を腐敗させているではないか。

神の体に支配されている悪魔が跳梁跋扈し、多くの衆生を地獄界に叩き落としているではないか。

ではなぜ神の体(物質)に支配されるのか?

ひとえに神への信仰を失ったからではないか。

神への信仰を失った者達が、神の体に支配され、全世界を腐敗と破壊に導いているではないか。

物質の相対性が意味する利益と国益を「天」に置き、その神の体の相対性から本音と建て前を使い分け、信用できない薄気味悪い存在となっているではないか。

物質の意味する従性に支配され、従的な地位名誉、力や富を目的とし、生態系から気候まで荒らしているではないか。

そして神の体に支配されたる者達は、相対的なものを絶対化し、神への傲慢をひらすら犯しているではないか。

すべては神への信仰を失ったからだ。

ゼウス神も言っておられたように、神に向け、それ以外にお前らが救われる道はない、と。

少なくとも次世代の文明では、神の存在と信仰が基本に置かれることになります。

だからその文明の基本に置かれる神の心がより高く、より正確で、より詳細に編纂されなければならないわけです。

完全な真理は今後も誰も説けませんが、少なくとも一歩一歩歴史を通して神の心を解明していかなければならない。

ただ今までの反作用は多少あるかもしれない。

作用は反作用に等しいというのは真理の基本の一つです。

撒かぬ種は生えぬ、撒いた種は刈り取らねばならぬ。

種を撒いてしまった限り、多少反作用はあるでしょうね。

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コメント

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