方便的に述べるならば、神の心が善、神の体が悪、正義が善、利益が悪、神我が善、自我が悪、生命が善、物質が悪、統一が善、矛盾が悪、真理が善、国益が悪、これが真理の基本です。
実相的に述べるならば、悪と言われる神の体、利益、自我、物質、矛盾、国益、欲望等々は、実は悪ではなく、最も低い善です。
最も低い善とは言え、神御自身がそう作られたために快楽はあるのです。
だから霊的に未熟な方は、こればかり追うのです。
しかして低い善であるからこそ、これを最上位に置き、目的化すれば、すべての悪の源になり、本来ない無限の悪が現象化してきます。
例えば欲望を悪と言ってきたようですが、悪ではなく、最も低い善というまでであり、神は一つも悪を作っておられないわけです。(万物肯定)
そして神の体、自我、利益、物質、矛盾、国益、欲望等々の共通点は、相対的な性質を有しているという点であり、これは神の体(物質)の性質そのものです。
だから永遠に「地」なのです。
相対的なものは、それを目的としてもならず、さりとて否定をしてもならない。
神の体、いわゆる物質は目的でもなく、さりとて否定もできない。
眼前の物質宇宙を否定できますか?
できません。
かと言って物質が目的かと言われれば、違います。
物質は目的とはなりません。
目的としても悪は無限化してきますが、否定しても悪は無限化されて現象化してきます。
この物質に対しては、宗教的な方ほど、どうしても中道に入れないのですね。
目的と否定の両極端の中道に入れないわけです。
既存の宗教の教えは、方便の教えが多く、神我が善、自我が悪と教えられてきました。
方便の善は、この時点でみずから本来ない悪を作っているのです。
神は悪を一つも作っておられないのです。
なのに自我を悪と認識し、欲望を悪と認識し、利益を悪と認識し、その通り捉えるために、悪が現象化してくるわけです。
方便の善が、みずから悪を作っているのです。
神はこの世でもあの世でもひとかけらも悪を作っておられないのです。
神の造られし世界に悪はひとかけらもありません。
方便の善が主張する悪なるものは、ほとんどが単に低いというまでであり、悪ではない。
方便の善とは善悪の善であり、悟りの未熟な善とも言えますが、この霊的未熟が本来ない悪を創造している面があります。
悟りの未熟が悪を生み、地獄を生んでいるということです。
あの世を説き、天国あり、地獄あり、と言えば、善あり、悪ありの善悪二元論にどうしてもなるのです。
しかして地獄界は神の創造せし世界ではありません。
善悪二元論でもなく、善一元論でもありません。
善悪を悟りによって善を悟り、悪を悟りて悟り一元論によって統一する。
悟り一元論の立場よりすれば、プラトンとアリストテレスが主張した活動説とこれは同じです。
すべての悪は克服された時、善となる。
克服されない悪がそこにある時、それを人は悪があると言い、地獄はあると言う。
克服されればありません。
悪があるのではなく、それを克服できない未熟な生命活動があり、その未熟な生命活動を悪と人は呼んでいる。
悪とは霊的未熟の鏡です。
現象化したる悪を鏡として、自己の個人的、社会的未熟を見ている。
悟りにて成熟すれば、鏡の中の悪は映らなくなり、消え去ります。
すべての悪は、元々存在しているのではなく、また神御自身が生んでいるわけでもないけれども、我々の霊的未熟とその活動が現象化させている。
すなわち悪とは活動説よりすれば、克服できない未熟な生命活動がそこにある時にのみ存在しているように見える蜃気楼と言えます。
克服されれば、悪は蜃気楼のように消えてなくなります。
地獄界とは未熟そのものであり、その地獄の悪を克服すれば、少なくともその者にとっては地獄はありません。
地獄も鏡の世界であり、自己の未熟が鏡に映っているに過ぎない。
地獄界消滅とは、各人の未熟の消滅のことを指し、人類各人の霊的未熟が在る限り、地獄はなくなりません。
地獄界消滅とは、外界に展開している地獄という世界そのものをなくすことを言うのではなく、内界に存在している霊的未熟をなくすことを意味します。
未熟の消滅を地獄の消滅と言う。
従って各人が未熟である限り、そうそう地獄界はなくならない。
地獄があるということは、人類の側に霊的な未熟があるということであり、地獄の悪魔と戦っても意味はない。
自己の霊的未熟を棚に上げて、その未熟から生じる地獄や悪を悪魔のせいにするのはお門違い。
悪魔と戦わず、自己の霊的未熟と戦い、勝利した時にのみ地獄界は消滅する。
たとえ諸神霊の如く悪魔と戦って勝利しても、自己の霊的未熟を棚に上げているようでは、悪魔も地獄もなくなることなく、むしろ増える。
悪魔と戦って勝利しても、肝心要の生命が未熟な状態に置かれたままならば、問題の解決にはなっておらず、その未熟は、またいずれ新たな地獄を増大させることになる。
ただひとえに人類各人の悟りによってのみ地獄界は消滅する。
そして悟りは自力であり、他力で地獄がなくなることはない。
自己以外、誰も自分に代わって悟ってくれる者はいない。
幸福の科学は、1986年、87年、88年、89年とここまでは良い真理を出していました。
初めは純粋に真理を説いており、また人・物・金等々の善の影も執着するほどのものはなかった。
だから良い真理を説いていた。
諸神霊からの啓示も本物の啓示であり、地球神界最高霊域の霊言が降りていました。
あまりにも高い霊域から啓示が降りていたために、その高さを理解していた人もまた少なかったのではないか。
例えば「知って犯す罪と知らずに犯す罪」と、どちらが重い罪かという問題でも、低い悟りの方は知って犯す罪の方が、知らずに犯す罪よりも重いと捉えますが、モーゼは最高霊域の神霊らしく、「知って犯す罪よりも、知らずに犯す罪の方が重い」と言っていました。
西洋で出された霊訓・シルバーバーチの霊言でも、知って犯す罪の方が重いと述べており、悟りの低さが暴露されていました。
知らずに犯す罪の方が重いと言っていたモーゼの方が、シルバーバーチよりも高い悟りの霊域にいる神霊である事実が、あれで分かります。
しかして一般的には、モーゼの方がおかしいというのが、悟りの低い方の特徴です。
悟りが高すぎて理解できないのですね。
このようにあまりにも高い霊域から啓示を降ろしますと、この世の人間が理解できないわけです。
残ってさえいれば、数百年後ぐらいには理解できると思う。
同時代で、あの高さを理解するのは難しいかもしれない。
「知って犯す罪と知らずに犯す罪」は、どこかの記事で書きましたので繰り返しません。
モーゼの言う通り、知らずに犯す罪の方が、知って犯す罪よりも重いということです。
西洋のスピリチュアリズムでも、あそこまでの高い霊域から啓示は降りていません。
すばらしい啓示の最後が1989年の「仏陀再誕」とは皮肉です。
国家の至宝と言っても過言ではないと思いますが、大川さんの出していた啓示は、1989年の「仏陀再誕」までが最高の霊言でした。
それ以後の霊言は、霊媒の表面意識が出しゃばりすぎており、人間的なる意識が入りすぎている。
結局、霊言は最期、仏陀自身が幕を下ろしたわけです。
それ以後の「アラーの警告」と「ノストラダムス戦慄の啓示」の2冊は、本人なのでしょうが人間的なるものが入りすぎている。
特に「ノストラダムス戦慄の啓示」のアメリカについて述べている部分は、当時リアルタイムで読ませて頂きましたが、アメリカについて言っていたのではなく、大川さんについて述べていたのが暗に分かったのを良く覚えています。
「あぁ、アメリカよ、お前がもう少し謙虚であったならば、もう少し神の心を慮ってさえいれば、アメリカよ、と。
お前の繁栄もしばし続いたであろう」
この霊言を最後に諸神霊は、霊言を一切送らなくなりました。
霊媒の意見や感情が出しゃばろう、出しゃばろうとすれば、霊言は止まります。
それでも出せば、その人間の驕りや傲慢、人間的なる感情がハイ・スピリットのせいにされ、それが悪しき影響を及ぼすからです。
この場合、霊言は止まります。
これはシルバーバーチも言っていた通りであり、どのような霊言でも人間の霊媒というフィルターを通す限り、必ず人間的なるものが大なり、小なり着色されているのです。
かなり優れた霊媒の場合、諸神霊の理念を95%ぐらいまでは正確に降ろせる霊媒もいるようですが、それでも100%ということはないのです。
必ず人間的なるものが着色されています。
これは人間を通す限り、どうしようもないというのですね。
諸神霊の意図や理念が100%の内容で降りることはないのです。
だから霊言の場合、審神者がいるわけです。
霊媒が自己の見解や感情を抑制できない時、諸神霊は霊言を出すことはできなくなります。
それでも出せば、その人間的なるものが諸神霊のせいにされるからです。
この場合、霊言は止まります。
幸福の科学もこれで止まりました。
「ノストラダムス戦慄の啓示」から2か月後、1991年3月に宗教法人の認可を受けるわけですが、この時には既に500名の諸神霊はすべて幸福の科学から離れています。
宗教法人格を取って、さぁこれから救世運動だという、まさにその時に離れています。
その理由は御本尊です。
当然、当時は御本尊と言えば「正しき心」であろうと思っていたわけですが、教祖の写真を御本尊にした。
個人崇拝の生き神信仰を始めてしまったのです。
これはさすがにショックを受けましたが、これでは諸神霊が出られなくなる。
その前年1990年の時、あの世で何か知りませんが、かなり騒ぎ、何等かの騒動が起こっていたのは知っておりましたが、その理由までは分かりませんでした。
何か大騒ぎしていたのです。
1990年、毎月と言っていいほど出ていた霊言が、この年は12月の「アラーの警告」1冊しか出ませんでした。
相も変わらずひどいえこひいきの霊人であり、酷いことに「アラーの警告」では、高橋信次氏が生き神信仰を肯定していました。
「信仰形態では仏教が一番自信をもっているでしょう。
要するに地上の仏陀が、信仰の対象となり、生き神さまになっているわけです。」
高橋氏は、あの世でどう言い訳するのか知りませんが、真理を捻じ曲げた。
それとも霊媒の人間的な意識に引きずられたと言うのでしょうか。
ばっちり証拠が残ってしまいました。
神我が「天」であり、自我は「地」で天地一体です。
神の心が「天」であり、神の体が「地」で天地一体です。
自我は知識・思考・概念・認識・情操、すべて相対的な性質しかもっていません。
イエスであろうが、釈迦であろうが、この地上に生きている限り、修行者であり、相対的な性質しか神から持たされていません。
その自我を「天」に置く生き神信仰を肯定し、助長し、あの世にいながら真理を捻じ曲げた。
ここら辺から既に無茶苦茶です。
事実、これ以後生き神信仰に走り、自我を「天」に置き、神の体に支配され、神の体、いわゆる物質の意味する利益を最上位に置いた宗教ビジネスに走り、御利益祈願に走り、偶像を販売するに至った。
自我を「天」に置いたために物質に支配され、質から量を誇るようになり、利益(神の体)を基準とした上下の上に惹かれ、物質は従性を意味しておりますので、従的なもの、いわゆる地位名誉、有名人著名人、学歴職歴に支配されるようになった。
自我を絶対化すれば、神の心ではなく、神の体の方面に支配されますので物質の属性を身につけてしまう。
物質宇宙は神の表現結果、すなわち物質は結果主義を意味しており、結果を目的とするノルマだの生命が向上すれば結果あらわれる御利益祈願だの結果そのまんまの魔認定だのを始めてしまった。
自我を絶対化すれば、神の体に支配され、物質の属性である一時性を身につけ、一時的なものを目的とする。
芸能人やアイドル、時事ネタや大河ドラマ等々、一時的なものに支配されます。
また現象無常、実相不変ですから、自我を絶対化し、慢心した教祖は、物質に支配され、この無常性を身につけます。
だから霊格がコロコロ変わり、過去世がコロコロ変わり、法も現象無常でコロコロと変わり、前で言うことと後で言うことが違ってくるわけですから、この物質の無常性から法の「矛盾」があらわれます。
これはすべて教祖が慢心したために自我を最上位に置き、神の体に支配され、物質の属性を身につけた結果生じた行為です。
これもすべて生き神信仰が原因ですが、あの世で高橋信次氏はこれを肯定していました。
無茶苦茶なご都合主義です。
だからカルトなんて言われる。
まぁ、責任取れんでしょうが、法の編纂という話で出ているわけですが、いい加減なことをやってもらっては困ります。
生き神信仰が間違っている根拠も、目の前にある大宇宙。
物質宇宙は神の所作物ではなく、神の表現である。
永遠に神我が「天」であり、自我は「地」です。
永遠に生命が「天」であり、物質は「地」です。
永遠に正義が「天」であり、国益と利益は「地」です。
神は大宇宙と自然界を通して人類に生き方を教えているわけですが、生き神信仰は、この「地」である自我を「天」に置いているために大宇宙、すなわち神御自身の目から見て間違っていると言える。
信仰とは神の心を拝むことであって、人間を拝むことではない。
信仰とは神の法を拝むことであって、個人の好き嫌いを拝み、それに仕えることを言うのではない。
一部の霊がなれ合いで普遍的な神の法を捻じ曲げてもらっては困ります。
ほんとに天界か?
あれだけの諸神霊が人類を幸福にするためならと、あえて縁があるわけでもないのに協力してくれていたにも拘わらず、どう顔向けするのでしょうかね。
法体系は、今はもう無茶苦茶になっている。
そこら辺の宗教団体と変わらなくなりました。
生き神信仰にしろ、救世主信仰にしろ、人格を不透明にするやり方にしろ、他力信仰にしろ、御利益を強調したり、恐らく大川さんはイエスを真似たのだろうと思う。
これでは救世の法にならない。
ボタンを掛け違えた状態で、そのまま服を着ているみたいな法になっている。
すべての法をチェックし、検証し、点検して、法を戻すことができるのでしょうか。
非常に悲観的に感じています。
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