真理関係

GLAと幸福の科学 17

GLAも幸福の科学も、いわゆる「救世の母体」とは何かが十分に理解できていなかったように思う。

救世の母体」とは、人類70億を救うという意味ではなく、神の法の母体のことであり、過去・現在・未来の全人類の生命の本質を解き明かしている母体のことです。

三世を超えた人類の本質を解き明かし、また説けるがゆえに「救世の母体」となる。

三世の人類の生命の本質を正確に説き得るがゆえに、人類を生かせる。

神の心以外、人類を生かせる心はない。

肉体でも心臓が止まれば、死亡します。

生命でも神の命が灯らなければ、死ぬのです。

この死を地獄という。

従って伝道とは、宗教団体がしているような信者拡大が目的ではなく、あくまで人の心に神の心を灯し、神の法への理解を浸透させ、神の心を知らしめることを言います。

神の心を知らないから、生命に神の命が灯らない。

灯らないから地獄に行くしかなくなる。

何も神の心を悟っていない教祖が、何を人の心に伝えるの。

伝えるべき神の心を悟っていないわけですから、神の心を伝えようがない。

それでも伝道するならば、それは信者拡大だの強勢を誇るだの富だのを目的としていることになる。

伝道とは神の法を心に伝えることであり、会員だの信者だのは二の次、三の次であって、それは目的にはならない。

人間の作った宗教団体といった組織拡大を目的とし、この拡大のために信者を勧誘するなど間違っており、そのような組織には入っても、入らなくてもどっちでもいいことです。

そういったどっちでもいいことを既存の宗教は目的みたいにしているようですが、最優先事項とは、人の心に人の道ではなく、神の道を伝えることです。

これを伝道と言いますが、これが最優先事項です。

組織拡大を目的にするのは間違っています。

これをGLAの高橋信次氏は、「組織の細胞になってはならん」と言っていました。

人間の作った組織を基準にし、その組織の細胞になりますと、その人間の作った組織を基準に苦楽を作り、道を逸れていくからです。

すなわち組織が発展すれば喜び、組織が衰退すれば悲しむ。

苦楽の両極端を作る。

苦楽を作るのは、神の心を心とせず、人間の作った組織を心の物差しに置いているから、その組織が発展すれば喜び、衰退すれば悲しむことになる。

人間のつくった組織を拝んではならん、と言っていたはずです。

神の心だけを拝めということです。

人間の作ったものを心の物差しに置いた時、人は苦楽の両極端を作る。

これは以前、どこかで書いたので繰り返しませんが、苦悩も相対的、快楽も相対的なのは、神の体、すなわち物質を心の物差しに置いているからであり、神の体を心の物差しに置いた時、人は苦楽の両極端をみずから作る。

苦楽の両極端を捨てて中道に入れ : 高橋信次

伝道とは、信者や組織を拡大することではなく、人の心に神の法を伝え、その神への理解を浸透させることであり、信者の拡大や組織の拡大などは、ある意味どうでもいいことです。

これを目的にするのは間違っています。

組織が拡大してもしなくても、どうでもいいのです。

神の法が人の心に伝わればいいのです。

神の心が、人の心に灯ればいいのです。

神の命が、人の命に宿ればいいのです。

神の命を、人の命に宿し、灯すことを伝道というのです。

組織などは、単なる結果論であり、これを目的とするのは間違っています。

しかして実際は、あくまで結果論ですが、真理の伝道をしていけば、結果として組織が拡大するといったことは生じてきます。

そして拡大していくうちに、知らず知らず、組織の拡大や信者数を目的にし始め、道を逸れていくことになる。

人の心に神の心を伝えることよりも、自己の宗教組織の強勢の拡大を目的とし始め、いつの間にか組織の細胞となり、その組織を心の物差しにすり替え、自己の宗教団体が大きくなれば喜び、衰退すれば悲しむ、苦楽を作る心になっていく。

そうなれば、もはや神の心を心とした救世の母体とは言えなくなる。

その者達は、組織と言う人間の作ったものを心の物差しに置いている。

組織の細胞になってはならんとはそういう意味です。

救世の母体とは、神の心を解明している母体であり、人類の生命の本質を説き得る母体です。

神の心を悟らず、悟っていないから、生命の本質を説けず、神の法も説けませんから、人類を生かすことはできない。

そのようないい加減な教義を伝道しても意味はなく、実害なだけです。

救世の母体とは、神の法を説ける母体ですから、全人類を生かせるし、全人類一人残らずの救済法則も説けます。

全人類を一人残らず、それは現在・過去・未来の三世の全人類一人残らずを救う「全人類救済法則」のことですが、これを説けない教祖の団体は救世の母体とは言わない。

これは今後、地球は宇宙時代に入り、他の星の連中とも付き合っていく時代になるでしょうが、その時でも他の星の連中一人残らずと地球人の一人残らずを共に救う「法則」です。

すなわち全人類救済法則とは、数は関係ありません。

全宇宙のすべての神の子達を、一人残らず救う「法則」があるのです。

これを説けない教祖は、神の名を騙って詐欺罪を犯していると言ってもいい。

イエス・キリストですら、2000年前この人類救済法則は悟っていませんでした。

今回、私がそれを悟りましたが、イエスの言っていた「百匹の羊」の比喩がきっかけでした。

イエス自身は、そういった思いだけはもっていたようですが、それをキリスト教では説いていません。

百匹の羊の比喩で一人残らずを救うのが、神の御心であると説き、返す刀で自己犠牲を説いています。

この矛盾は結局、イエスと言えども2000年前は、その一人残らずの救済の法を知らなかった、悟っていなかった、未熟な点があったことを示している。

一粒の麦、もし死なずばの通り、自己犠牲によってその一人がどうしても犠牲になり、一人残らずの救済にならない。

一人残らずの救済法則とは、一人残らずですから、そのキリスト教で説く、その自己犠牲のその一人も入っています。

自己犠牲の考えでは、その犠牲になる一粒の麦が、存在しなければ人類は救いえないと言う立場となる。

ところが返す刀で「百匹の羊」の比喩を説き、一人残らずの救済が神の意志であるとも説いている。

イエスの教えでは、ここに百匹の羊をもった羊飼いがいるとする。

羊飼いとは、愛に生きる者の象徴です。

そのうち1匹の羊がはぐれて、どこかにいなくなってしまった。

さて羊飼いはどうするか?

愛に生きる者はどうするか。

イエスは、その残りの99匹をその場に放っておいてでも、そのはぐれた1匹の羊を救いに行くのだ、とそういっていたはずです。

一人も切り捨てない、一人残らずを救う。

こちらで1人をのけ者にして、残りの99人が仲良く調和していたとして、その調和に何の意味があるか。

神の思いは、すべてが神の子であるがゆえに一人残らずである。

一人も切り捨てず、一人も諦めない。

神の思いとは、一人残らずなのだ、とキリスト教では説かれている。

一人残らずの人類救済の思いだけは説かれている。

私もこの「百匹に羊」の比喩に影響を受けて、一人残らずの人類救済を探求していったわけですが、この法則に到達するのに7年かかりました。

だからキリスト教の矛盾が分かるのです。

一人残らずの救済が神の思いであることは分かるのですが、返す刀で自己犠牲を説いている。

その犠牲になる一人の救済も、神の思いの中には入っている。

今回の救世の法では、これも説かれる。

救世の母体」とは宇宙論そのものです。

物質宇宙は神の表現体であり、神の体です : 高橋信次

生命即物質、神の心即神の体、主観即客観そのままです。

見られる世界は、見る者の心の世界である : 西田幾多郎

菩薩が「救世の母体」の長になりえないのは、その悟りの有限性によっています。

菩薩はどうしても方便の善しか説けないのですね。

生命と物質を切って、物質を捨てて生命に入れ、神我と自我を切って、自我を捨てて神我に入れ、現象と実相を切って、現象を捨てて実相に入れ、苦楽と中道を切って、苦楽を捨てて中道に入れ、このようにどうしても神我と自我、生命と物質、実相と現象を自我で切ってしまうのです。

悟り不足と言えば、それまでですが、別に悪意があるわけでもない。

双方を切るのは、自我で切るわけですが、どうしても自我に比喩した善、物質に比喩した善、利益に比喩した善、すなわち方便の善しか説けないわけです。

ところがこれではその悟りの有限性から、無限数の人類を救う、「救世の母体」とならず、有限の善の限界性から、一歩間違えば、魔に堕ちます。

悟りに有限性があり、場所の有限性、地域の有限性、伝道の有限性、物質の有限性とぶつかるために、無限数を救う「救世の母体」の長となりえないわけです。

それでもなろうと無理をすれば、その悟りの有限性が、自己の壁として立ちはだかり、超えられない壁だと見切りをつけ、その場を立ち去れば問題はありませんが、えてして神の御名を語るために、超えられない壁を超えようとして魔に堕ちることになります。

その向上心自体は、必ずしも悪とは言えぬが、悲しいかなこれが霊格と言われる神の評価なのです。

神の心は絶対なのですね。

この世もあの世も、西田哲学で説かれているように、見られる世界(客観)は、見る者の心の世界(主観)で主客は永遠に合一しています

この世だけではありません。

あの世の多次元世界も、すべてこの主客合一に貫かれています。

見られる菩薩界というその世界は、そこに住む菩薩の心の世界で、主客は合一しています。

西田哲学の主客合一は、あの世とこの世を貫いている永遠の法則です。

従って主観、心を良くすれば、客観である世界も良くなり、心が悪くなれば、世界も悪くなる。

心(主観)と世界(客観)は一つだからです。

そしてこのあの世とこの世の世界を永遠に規定している主客合一の法則が、人間とは何かを根源から定義づけている。

心が良くなれば、世界も良くなり、心が悪くなれば、世界も悪くなる。

主客合一だからです。

もしこの主客合一の法則を否定するならば、要は主と客が切られていると主張しているわけでしょう。

そしてもし主観と客観が初めから切られているならば、主観、このわが心を悟りによって向上せしめ、信仰を極め、霊的に進化しても、客観の世界と切られているわけですから、どんなに心を良くしても、客観の世界は良くならないことになる。

主観と客観は切られていると主張しているわけですから、主観の心をどのように悟りによって向上せしめても、主客が切られているわけですから客観の世界に何ら影響はなく、悪くなったり、良くなったりすることになる。

心を良くしても世界は良くならず、心を悪くしても世界は良くなることになる。

心と世界は切られているために双方、何ら互いに影響を及ぼさない。

ならば心を良くしようとしても無駄でしょう。

心を良くしても、世界は悪くなったり、良くなったり、心とは何ら関係ない現象を示すわけですから、心を磨いてもしようがない。

客観の世界が、心と関係のない現象を示すならば、心を磨く必要性はなくなります。

磨いても世界は、その心の在り方と、何ら関係のない現象をあらわすからです。

この場合、心は目的とならず、神も目的とはならず、信仰も必要なくなる。

主客が切られている世界構造においては、わが心をどんなに良くしても、それは客観の世界に何ら影響を及ぼさないために、心を良くしても世界が良くなる保証はどこにもなくなる。

主客分離の場合、心を磨いていも無駄であり、神を信じても無駄であり、悟っても無駄な世界となる。

ならば客観の世界、この物質だけを拝めばいいことになり、神を信ずる必要性はどこにもない。

しかして世界を拝み、物質を拝めば、その相対性から永遠に世界は腐敗していくこととなる。

主客分離の場合、主観、この心を磨いても世界は良くならず、悟っても客観の世界に何ら影響を及ぼさず、進化向上しても客観の世界と切断されているために、心を良くしても世界は良くならないことになる。

ならば心を忘れ、正義や愛を忘れ、叡智や秩序を忘れ、神の心を忘れて、ひたすら利益と国益、物質と自我だけを目的とすれば、どうなるか?

この世では世界の腐敗とあの世では地獄しかない。

主客分離の世界構造に希望なし。

もし西田哲学に在る如く、主客が合一している場合はどうなるか?

主観と客観、心と世界が合一しており、一つなわけですから、心を良くすれば、世界は良くなり、心が悪くなれば、世界も悪くなる。

主客の分離には、心が無意味の世界となる。

なんとなれば心をいくら良くしても、それは客観の世界と切断されており、何ら影響を及ぼさないために、心を向上させても、客観の世界は、何ら良くならないことになる。

主客の分離は、人間の存在を物質と定義づける。

主客分離の前提から人間を生命であると定義しても、その生命は主客が分離しているために客観の世界に何の影響も与えない。

生命をいくら良くしても、客観の世界は決して良くならないということだ。

だから主客分離の世界構造において人間の存在を生命であると定義づけることはできない。

心を良くしても、何ら客観の世界を良くすることはできない世界構造だからである。

心や人格性に意味はない。

たとえ心を重んじても、それは主と客が分離しているために、その心は客観の世界に何の影響も及ぼさないため、心を良くしても世界は良くならない。

では実際の世界構造はどうか。

まさに西田哲学にあるように主客は合一している。

主客合一は、永遠の法則であるから、心(主観)を良くすれば、世界(客観)は必ず良くなる。

主客は合一しているからです。

その悟りによる主観の、すなわち生命の進化向上は、そのまま客観の世界に影響を及ぼす。

そしてこの主客合一の法則は、あの世とこの世を永遠に貫いている。

ならばこの主客合一の法則によって肉付けされた世界の構造は、一体何を意味しているのか。

人間が肉体ではなく、生命であると定義づけている。

この主客合一の法則が意味しているところは、生命を磨く以外に客観の世界を良くすることはできないことを意味している。

人間・神の子の思想は今後、全面に押し出されていくであろうが、その前にこの世界は主客合一の構造と仕組みになっており、その世界構造の仕組みそのものが、人間の存在を生命であると永遠に定義づけている。

主客合一の世界構造であるゆえに、我々は心を磨くしかないということだ。

眼前の大宇宙の存在そのものの構造と仕組みが、我々人間の存在を根源から生命であると定義づけている。

だから生命を良くすれば、世界も良くなり、生命が悪くなれば、世界も悪くなる。

主客は合一しているからだ。

主客合一の法則そのものが希望である。

神がこの世界を主客合一の法則として創造されたということは、この大宇宙を希望の存在として創造されたということだ。

だから神への信仰や悟り、叡智や愛、正義や秩序、この美しきもの、うるわしきもの、優れたるもの、が重要な意味をもってくる。

世界の構造と仕組みは、主客合一に基づいており、この世界の法則が、人間存在を根源から生命として定義づけているということだ。

大宇宙、この神そのものが、この主客合一の世界構造を通して、我々人間を霊であり、生命であると定義づけている。

そしてこの主客合一が永遠の法則ならば、我々人間は永遠に生命存在であり、永遠に神の子だということだ。

紙幅の関係でここで切っておく。

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コメント

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